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成長して大変身した前田利家

最終更新日 2025年6月10日 by michidoo

前田利家ってどんな人?

前田利家というと加賀百万石と言われる大きな都市を造り、武士として裸一貫から戦国大名に上り詰めた凄い人というイメージがある人も多いのではないでしょうか。
そのイメージはだいたいとしてはあっているのですが、彼は幼少期と晩年とではかなりイメージが変わるので、それを付け足しておきたいところです。

幼少期はハッキリ言えばやんちゃな少年だったようです。
何しろ使えていた織田信長のお気に入りの少年を殺してしまって信長に激怒されて追放されるという目にあっています。

そのため、前田利家はかなりの貧乏生活を送る事になってしまったというのです。
しかも、この貧乏期間に子供までもうけてさらに生活苦になるというある意味では全く後先考えない行動を取るというのが若い時の彼のやり方だったといっても良いでしょう。

あまりにも生活が苦しいので、森良可という信長の重臣に相談をしていたというような記録が残っているぐらいです。

信長に対する忠誠心が揺らぐことは無かった

ただ、信長に対する忠誠心が揺らぐことは無かったという事が彼の凄いところだといっても良いかもしれません。
一説には信長の男色の相手だったという事も言われたりもしますが、追放されても信長に対して忠義を示していたことは事実です。

何しろこの追放の期間中にあの桶狭間の戦いがおこり、彼は追放されていたので一人の武士という立場でこの戦争に参加するという事をしています。
そして勝手に今川軍に突撃していくつかの首を取って信長の前に差し出すという事をしています。

ですが、それでも許してくれることは無く、これでもダメかと言い放ってまた次の首を取りに行くという事をしたともいわれているのです。
この行為は信長としては嬉しくはなかったのかもしれません。

というのは信長は今川義元に対して奇襲を仕掛けたいと考えていたところで、この利家が馬鹿のように少人数で今川軍に攻めかかるので自分が来ている言葉バレてしまう、若しくは今川軍が警戒してしまうという事を恐れたのかもしれません。
そのため、利家の行為を喜ばなかったのではないという事も想像出来てしまうのです。

美濃攻めの時に敵の名だたる武将を倒した

これぐらいに若い時の利家というのは何でもありのやんちゃ坊主だったわけですが、信長の美濃攻めの時に敵の名だたる武将を倒したことで復帰を認められることになります。

凄いのはこの復帰も凄いのですが、この後ですぐに赤母衣衆という信長親衛隊のトップにまで上り詰めているところでしょう。
信長は親衛隊として赤母衣衆と黒母衣衆という二つの部隊を設置していたのですが、赤母衣衆のトップが前田利家、黒母衣衆のトップが佐々成政というような事がありました。

つまり、一介の浪人があっという間に信長の新鋭隊長というところまで出世しているわけで、これが如何に凄いのかということが分かります。
親衛隊はまさに信長の傍で護衛をするという最も重要な役目をするところですから、そのトップを任されるという事がいかに信長の信任が厚かったのかという事がわかると言えます。

そして、利家は実際に信長を守るということも戦場でしていてこうした槍働きが認められたという事があるのかもしれません。
有名な姉川の戦いでは迫りくる浅井軍の武将を倒して、あっぱれ利家いつもながら見事な槍というように言われたという書類も残っていて、いつもながらと信長に言わせるとほどの槍使いだったという事がわかるのです。

追放を許された美濃攻めの時でも美濃の斎藤軍の中でも最強ともいわれていた、足立六兵衛という武将を討っています。
この武将は超がつくぐらいの有名な武将だったようですから、それを一騎打ちで倒してしまうというのはとんでもない実力だったという事が分かります。

まつという女性と結婚してラブラブだった

そんな前田利家ですが、まつという女性と結婚してラブラブだったという事も知られています。
そして最も変わっていったことが経済的な概念が出世するにしたがって出てきたことです。

何しろそろばんを持ち歩くという事になるぐらいに経済の重要性を理解するようになったのが凄いところです。
若い時は槍一本で信長の意向など考える事無く走り回っていたことを考えると全く違う人になったかのようです。
戦においては常にそろばんをはじいて銭の計算をしていたという事なのでしょう。

実は戦はお金がかかりまくる大変な事だったわけです。
戦において最も大切な事は補給を確保することで、これが出来る人が最終的には戦上手という事になるわけですが、この事を大人になってからは理解するようになり、その重要性にいち早く気付いたという事なのでしょう。

当時はそろばんというものが入ってきたばかりでまだ世間では使っている人もいないような時代です。
そのような時代にそろばんを持っているという事自体がいかにお金の管理の重要性を理解していたのかという事の証明でもあると言えるでしょう。

だからこそ後に加賀百万石といわれるような城下町を育成することが出来たのかもしれません。
最終的には銭は刀よりも強いという事を理解していたと思われます。

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